(青岸渡寺から) 7.24(土) 熊野本宮大社 大門坂から新宮へ行き、熊野川を遡る。 広い石河原と、独特の青緑色が特徴的な 熊野川を右手に見ながら、 ホンダライフをとばして、本宮に到着。 |
![]() |
熊野本宮大社 正面の鳥居 ついに来ました、熊野本宮! |
![]() |
美しいブラウンゴールドの扁額 |
![]() |
両脇に幡が連なる参道 |
![]() |
参道に、都道府県別 熊野神社の分布図があった。 全国にまんべんなく広がっている。 特に東北、関東が多く、 福島県が最多で437社、 次は千葉県で346社。 |
![]() |
主祭神は、家津御子大神。 すなわちスサノオとある。 日本神話の有名な神と同じというのは、 神神習合として、 家津御子(ケツミコ)とは何なのか。 ツは助詞、ミコは文字通り御子、もしくは巫女として、 ケは何か。 食、毛、木、気など、いろいろ説がある。 ところで、出雲にも有名な熊野坐神社がある。 式内社で出雲國一宮であり、その主祭神は、 櫛御気野命、やはりスサノオと同じとされる。 クシミケヌとは何なのか。 クシは形容詞「奇し」、ミは敬語、ヌは助詞として、 ケは何なのか。 出雲と熊野のどっちが先なのか。 いずれにせよ、キーワードは「ケ」と思うが、 関東の大国「ケ」と何か関係ありか。 難解、不明。 延喜式神名帳の紀伊國には、熊野坐神社があり、 今の本宮とされる。 最初の神は、やっぱり熊野坐大神なのだろう。 それが時代とともに、いろいろと習合していった。 古事記では、神武東征の際、熊野で大熊が現れるが、 伝説の大熊を、先住民とすれば、 それらの人々の信仰が、根源なのかもしれない。 また、熊野坐大神は、船玉大神としても仰がれ、 古来、植林、造船、貿易の神でもあった。 船材と良港に恵まれた熊野は、 熊野水軍(海賊)の根拠地で、 水軍は古代から中世にかけて活躍、 瀬戸内海の制海権を握るほどの勢力を誇った。 |
![]() |
神門 神を父 仏を母にいだきて 熊野より興さむ 出発の時 那智のように濃厚な感じはないが、 やはり神仏習合の伝統が息づく。 |
![]() |
神門に、八咫烏の由来があった。 「三本足とは、熊野三党(宇井、鈴木、榎本) を表すとも言われ」とある。 しかし、三足烏の伝説は、東アジアに多く見られる。 中国神話では、太陽に住む烏のことであり、 既に前漢の壁画にある。 高句麗では、火鳥とも言われ、 古墳壁画に描かれている。 大陸⇒半島⇒列島と伝わった伝説 の一つだろう。 |
![]() |
本殿 那智の朱の清明さとは違い、 ゴールドブラウンの高貴さ。 第一殿から順に参拝する。 |
![]() ![]() |
第一殿 夫須美大神 那智の主祭神 第二殿 速玉大神 速玉の主祭神 |
![]() |
第三殿 本殿 |
![]() |
家津御子大神 |
![]() |
隣の小さな満山社にも参る。 |
![]() |
神門に、昔の本宮の絵があった。 明治時代、豪雨で倒壊する前の様子。 今より豪華な本殿のラインナップ |
![]() |
神門を出て、振り返る。 |
![]() |
拝殿の、真新しい八咫烏の石碑。 御朱印をもらうのに、行列ができている。 まあ、並ぶしかない。 |
![]() |
熊野牛王符の由来があった。 行列の退屈しのぎに眺める。 天武期に僧が奉納した記録があるそうだ。 たいそう古いもんだ。 鎌倉時代には誓約書になり、 江戸期には起請文になった。 熊野権現への誓約を破ると、 地獄へ落ちるらしい。 また、熊野に参る人々を あらゆる災厄から護るともある。 参拝の記念に、御朱印をいただき、 熊野坐の本来地、大斎原へ。 |
![]() |
ひゃ~、どでかい大鳥居 あんまり趣味ではないけれど、、、 |
![]() |
本宮は、元々この中洲にあった。 明治22年の大洪水で被災。 倒壊を免れた上四社(三棟)を現在地へ遷し、 倒壊した中社・下社と摂末社は、 当地でそれぞれ2基の石祠に祀った。 |
![]() |
![]() |
ひっそりとした2基の石の祠 |
![]() |
天孫系の神々が並んでいる。 |
![]() |
旧社地 しずかに大切に管理されている印象。 |
![]() |
しっかりした石垣が残っている。 昔の社地の名残を留めている。 売店で冷やし中華を買って、駐車場に戻ると、 アレー、車の鍵が無い。 ガーン、途方に暮れる。 一縷の望みをかけて、神社へ電話すると、 ほっ、助かった。社務所へ届けてあった。 本殿前に落ちていたそうだ。 さっそく熊野権現に助けられた。 社務所へ鍵を取りに行き、 ついでに熊野牛王符を一枚購入した。 本宮を後にして、新宮へ向かう。 |
![]() |
新宮へ戻る帰る途中、橋の上から 熊野川の中洲に大斎原が見えた。 そのロケーションから、 大雨が来たら、川が増水し、河原は無くなり、 中洲の建物はひとたまりもないだろう。 史上、大雨は明治だけではないはずで、 その前も何回となく被災していたに違いない。 そのたびに大斎原に再建したのだろう。 鎮座地は、信仰上重要なのにも関わらず、 明治のとき、なぜ遷したのか。 伝統よりも防災を選択したのか、 それとも、中洲に建てる意味が 既に無くなっていたのかもしれない。 |
![]() |
熊野川舟下りの乗船場にもなっている、 道の駅熊野川で休憩。 熊野川が滔々と流れていた。 【神倉神社へ】 |