(紀三井寺から) 7.24(土) 熊野那智大社 今日は、旅のメインとなる熊野三山。 まずは、熊野那智大社を目指す。 熊野古道、大門坂前の駐車場で出発準備。 朝食は、コンビニめし。 |
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準備OK。 さあ、出発! 朝早いためか、誰もいない。 |
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民家の前を通ると、鳥居があった。 |
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陽を浴びて、大きく美しい夫婦杉 ここから先、大木に囲まれた、 幽玄な雰囲気、大門坂の石畳。 一歩々々、ゆっくり上る。 |
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大門坂を過ぎ、門前街を抜けると、 青岸渡寺との分岐となる。 左は神社、右はお寺。 左から行く。 |
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御祭神は、 熊野夫須美大神(伊弉冉尊) 御子速玉大神(伊弉諾尊) 家都御子大神(素戔嗚尊) |
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更に階段を上る。 二の鳥居。 今日もいい天気だ。 |
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青空に緑が映える。 |
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着いた! とても清々しい境内。 これまで行ったどの神社よりも美しい。 |
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由緒書 「クマ」と「カミ」とは同じ意があると考えられ、 「クマノ」とは「カミの野」で神々が住まう地 とある。 やっぱりそうか。熊とは神のことだったのだ! ということは、日本が日の本であるように、 熊本は神の本であり、隈府は神の府であり、 隈庄は神の庄なのだろう。 また、先の日前は、日の神だろう。 それから、日本神話の有名な神々が、 熊野の神々のカッコ書きになってる。 そして、「熊野信仰は早くから神仏習合した」 とある。 ひょっとしたら、神仏のみならず、 早くから神神も習合したのではないか。 旧住民の神と、新住民の神が、 重層的に習合したのではないか。 習合することで、古き民と新しき民の、 あるいは中央と地方の、 対立が緩和され、利害が一致し、 共存繁栄を成し遂げたのか。 古来、日本の第一条は、以和為貴である。 |
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那智の八咫烏マーク 三社ごとにデザインが異なる。 |
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八咫烏の柱が誘っている。 |
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八咫烏をまつる神社で、 お導きの神様、旅行安全、交通安全とある。 御祭神は、建角身命。 八咫烏の神名なのだろう。 さっきの由緒書きでは、賀茂建角身命だったけど。 カラスなのでカモは、取っちゃった? 社の名は、御縣彦、これも八咫烏の別名なのか。 縣は県で、今は地方自治体のことだが、 元々は、あがた、上が田、 すなわち中央政権に献上された土地だろう。 そこには県主が置かれた。 旧事本紀の国造本紀に、 「天孫は、東征に功績のあった者を褒めて、 国造に定め、逆らう者は誅し、県主を定めた。 これが、国造、県主の由来」とある。 逆らった兄磯城(エシキ)を誅し、 八咫烏を県主に定めたのか。 ちなみに国造本紀には、ニギハヤヒの子孫、 大阿斗足尼(オオアトノスクネ)を 熊野国造に定めたとある。 |
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旅の案内と安全を、しっかり祈る。 |
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御案内 伊勢に七度、熊野に三度という諺があるらしい。 あと二回来なければなるまい。 御祭神の夫須美神は、 むすびで願望成就の信仰とある。 |
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拝殿 |
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あと二回来れますように こちらもしっかりお願いした。 |
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熊野大権現の扁額 奥の扁額には、 日本第一霊験所根本熊野三所権現とある。 山神、海神、日神、渡来神に仏さまなど、 いろいろ重なり、奥深いクマになったのか。 |
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ちょっと下がって、境内を眺める。 ほんなって、きれいか~ |
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再度、拝殿を見に行くと、 な~んと、神職がお経を合唱している。 丹生都比売神社では、 僧が祝詞を上げていたが、、、 紀伊半島恐るべし。 筋金入りの神仏混淆だ。 和の精神を世界に広め、 戦争を終わりにしよう ( ^)o(^ ) |
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本殿の屋根が見える。 一番奥の第四殿、西御前が 那智の主祭神である。 紀伊の神社もそうだったが、 もったいぶらず、 本殿をもっとよ~とみせて欲しい。 |
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江戸時代後半に建立された社殿は、 重要文化財、世界遺産である。 |
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東門 その向こうは仏の世界 神と仏が隣り合わせ。 |
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東門を潜り、仏門へ入る。 振り向けば、向こうのことか、こっちのことか、 那智山熊野権現とあった。 【青岸渡寺へ】 |