(美保神社から) 2022.7.4 熊野大社 山陰道を東出雲ICで下りて、 意宇(おう)川沿いを山手へ向かうと 熊野大社に着いた。 |
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出雲には、古くから神社が多く、 式内社の数は、大和、伊勢に次いで 3番目となっている。 その中には大社が2つあって、 2つとも出雲一宮となっている。 1つは有名な出雲(杵築)大社で、 もう1つがこの熊野大社だ。 古代の神階は、熊野大社が 出雲大社よりも常に上だった。 そして熊野の名を見れば、 誰もが世界遺産になった 紀伊の熊野三山を 思い浮かべるだろう。 クマノとはいったい何なのか。 なぜ出雲と紀伊に、クマノがあるのか。 どっちが先なのか。 |
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祭神名はとても長い。 神祖熊野大神櫛御気野命 (かぶろぎくまののおおかみくしみけぬ) 要するにクシミケヌだろう。 クシは形容詞「奇し」 ミは敬語、ヌは助詞とすれば 核心的な名は「ケ」なのだろう。 熊野本宮の祭神はケツミコだった。 ツは助詞、ミコは御子、 もしくは巫女とすれば、 やはり「ケ」が名の中心なのだろう。 ケとは一体何なのだろうか。 一般的に食のこととされるが、 はたして本当にそうなのか。 そして、クシミケヌもケツミコも スサノヲの別名とされている。 |
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正面の鳥居 |
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中世から近世まで 紀伊の熊野信仰の影響を受けた 「上の宮」があった。 明治時代、「下の社」だった 現地へ合祀された。 |
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意宇川に掛かる八雲橋を渡る。 |
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今度は木製の鳥居 |
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随神門 注連縄は、やっぱりデカい。 |
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一昨日以来よく見る 尾立スタイル |
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随神門下から拝殿を見る。 |
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舞殿(まいでん) |
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拝殿に近づいてきた。 |
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参拝する。 神紋は、一重亀甲に大の字 出雲国造の本拠は意宇郡で、 氏神は熊野大社だった 律令制になると意宇平野に 出雲国府が置かれる。 中央から国司が派遣され、 出雲国造は意宇郡の 郡司に任じられた。 意宇郡司の職を支族に譲り、 出雲氏本家は杵築郡に 拠点を移し、杵築大社の 祭祀に専念するようになった。 |
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熊野大社特有の建築物 鑽火殿(さんかでん) |
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祭神のスサノヲが、 檜の臼と卯木の杵(うつぎのきね) で火を鑽(き)り出す方法を教えたので、 熊野大社は、日本火出初之社 (ひのもとひでぞめのやしろ) とも呼ばれている。 出雲国造が亡くなると、 次期国造は燧臼(ひきりうす)と 燧杵(ひきりぎね)を持って 熊野大社へ行き、鑽火殿で神火を 鑽り出し、その火で調理した食事を 食べることで出雲国造となる。 火継式と呼ばれる。 「火」は「霊(ひ)」であり、出雲国造は、 熊野神社の神火をいただいて はじめて霊威を継ぐことができる。 |
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横から見る鑽火殿 |
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伊邪那美神社 |
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スサノヲの母を祀る。 明治の一村一社の制により、 旧熊野村の神社がここに合祀された。 |
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稲田神社 |
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スサノヲの妻を祀る。 |
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本殿を望む。 |
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立ち並ぶ灯籠 神紋入り |
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スサノヲによる 最初の和歌の石碑があった。 須我神社へ |