2016.8.14



西巌殿寺(さいがんでんじ)に参る。



正門から入る。



西巌殿寺はもともと阿蘇山上にあった。


開基は遠く奈良時代に遡る。


最栄が十一面観世音菩薩を火口の西の洞窟(巌殿)に祀り、

法華経を読んで修行に励んだことから西巌殿寺と呼ばれた。


それじゃ火口の東には東巌殿寺があったのではと推察したくなるが、

それはさておき、西巌殿寺には次第に多くの修行僧や修験者が集まり、

坊舎が建てられ、その数36坊52庵と云われた。とても盛んだった。


西巌殿寺とは、本堂に加えこれら坊や庵を加えた総称であり、

僧の読経の大合唱、山伏の吹き鳴らすほら貝が阿蘇山中に響き渡り、

多くの参詣者で賑わった。


しかし戦国時代、戦乱に巻き込まれる。

阿蘇氏の庇護下にあったため、島津氏によって寺院群は全て焼き払われ、

僧や山伏は四散した。


その後、秀吉の時代になって肥後に入った加藤清正が、

山上の本堂を修復するとともに、36坊52庵を麓の黒川に再興した。

これ以降、山上は古坊中、黒川は麓坊中と呼ばれるようになる。


加藤氏改易後、肥後へ国替えとなった細川氏も西巌殿寺を庇護。

江戸時代を通して坊中は賑わいを取り戻した。


維新後、廃仏毀釈によって西巌殿寺は衰退するものの、

明治4年に山上本堂を麓の学頭坊に移し、同坊を西巌殿寺として

現在まで法灯は継承されてきた。


 

木製の阿蘇坊中の図があった。

坊中(麓坊中)の繁栄を今に伝えている。


阿蘇駅はもともと坊中駅であり、阿蘇登山道路も坊中線だった。

なぜなら地名が坊中だからであり、

その名の由来は、西巌殿寺の36坊52庵だった。



石段を上ると、本堂は礎石のみの廃墟となっていた。

2001年、不審火により焼失したとのこと。


西巌殿寺の歴史は、まさに栄枯盛衰である。

阿蘇山火口がある限り、いつの日にか復興することだろう。


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