耳川 (みみかわ)


 九州山地から日向灘へ向けて、幾筋もの川が流れている。

 耳川もその一つで、三方山に発し椎葉村を抜け、その名の由来と云われる美々津から太平洋へ注ぐ。

 源頭の三方山は、その名のとおり緑川、球磨川そして耳川の三方境であり、

 また河口の美々津には、神武東征出発地の伝説がある。
 

 戦国時代、九州の勢力図を塗り替える合戦が起きた。耳川の戦いだ。

 九州制覇を狙う豊後の大友宗麟と、薩摩の島津義久が激突。

 足並みの揃わない大友の大軍を、一枚岩の島津軍が圧倒、敗走する数千の大友兵が耳川で水死した。

 戦いの結果、島津氏は南九州の支配を確たるものにし、九州のパワーバランスが崩れ、

 秀吉が九州平定を行うまで、島津氏は九州統一に向け戦線を拡大していく。

 戦国最強の島津四兄弟に率いられた島津軍の強さは、強烈だったらしく、

 後の朝鮮の役では、鬼シーマンズと朝鮮・明軍から恐れられた。


 流域の椎葉村には鶴富屋敷がある。

 壇ノ浦で敗れた平家は、散り散りばらばらになって、九州山中へ落ちて行く。

 その中のある一行は椎葉にたどり着き、そこで秘かに暮らしていたが、風の噂は早かった。

 頼朝は、那須与一に追討を命じ、兄の代わりに弟の大八郎が椎葉へ向かう。

 椎葉にたどりついた大八郎が目にしたのは、一心に畑をたがやす平家の人々だった。

 大八郎は、頼朝に討伐した旨嘘の報告をした後、椎葉で暮らすことにした。

 そのうち清盛の末孫、鶴富姫に出会い嫁に迎えるが、やがて帰還命令が来る。

 大八郎が椎葉の地を離れた後、鶴富姫は女の子を出産し、成長すると婿を取り、

 愛してやまない大八郎の那須の姓を名乗らせた。