大野川 (おおのがわ)


 久住山に登ると、南方の胸がすくような大観が楽しみだ。

 遠く祖母傾の稜線との間に、九重高原や阿蘇外輪の野山が波打つように広がっている。

 名は体を表す。

 大野川は、阿蘇、九重、祖母の山々に囲まれた広大な原野の雨を集めて流れる。


 源頭は祖母山とされる。

 これだけ大きな山になると分水嶺になっていそうなものだが、

 祖母山に降った雨は全て大野川に流れる。

 源流とされる西南側の本谷、北谷の流れは、西流したのち北へ東へ流れを変え、祖母山を大きく時計回りに反転して流れる。

 切り立った東南側は、祖母傾の主脈と障子尾根に囲まれた大渓谷をつくり、奥岳川となって大野川に合流する。


 しかし上流部で最も流域面積が広く、水量のメインとなるのは阿蘇外輪山だろう。

 地名にもあるように波野が広がり、その幾筋もの襞々の流れは玉来川に集まる。


 さらに九州の屋根、九重連山の南斜面の谷筋の流れは稲葉川に集まる。

 久住高原からの九重の壁、南斜面の眺めは、大好きな山岳風景の1つであり、

 場所によって見える山やその形が変わる。

 西から東へ行くにつれて、大船が見え始め、更に黒岳も見えてくる。

 気になって仕方がないが、わき見運転に注意しなければならない。

 
 三名山から流れてきた大野川、玉来川それに稲葉川は、竹田市で合流する。

 ここには滝廉太郎の古城の月、また桜の名所として有名な岡城がある。

 緒方惟義が源頼朝に追われた義経を迎えるために築城したと云われる。

 大友氏の治世、家臣志賀氏の居城となり、さらに九州平定した秀吉により、

 播磨三木城主中川秀成が豊後岡城主に移封された。

 関ヶ原で最終的に東軍に与し、中川氏は幕末まで岡藩主として続いた。


 中川秀成の正室は、勇猛なことから鬼玄蕃と称された佐久間盛政の娘、虎姫である。

 秀成の父中川清秀は、賤ヶ岳の戦いで、秀吉方の先鋒二番手として参戦するが、

 柴田方の佐久間盛政の猛攻に遭って戦死する。

 賤ヶ岳の後、柴田勝家は北の庄で自害、盛政も落ち延びる途中捕らえられる。

 秀吉は盛政の武辺を買い、九州平定後肥後を与えるので家臣になれと誘うが、盛政は応じず、

 せめて切腹を命ずるが、処刑を望み、京市中を引き回しのうえ斬首された。

 秀吉は何を考えたのか、その鬼玄蕃の一人娘虎姫を、父を仇とする家に嫁がせた。

 虎姫は中川家中、特に姑から嫌われ、豊後へ行くことは一度もなく、終生畿内で暮らした。


 岡藩第三代当主の中川久清は、岡山藩から熊沢蕃山を招聘し、水路開削を行うなど

 岡藩中興の英主と言われ、こよなく九重連山の大船山を愛したことでも知られている。  
 
 足が不自由だったため「人馬鞍」を屈強の男に担がせ、何度も登山した。

 春の花々、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の樹氷、四季折々の自然を楽しんだことだろう。

 日本アルピニズムの先駆者なのかもしれない。

 墓所は、大船山南斜面の中腹にあり、入山公墓と呼ばれる。



 また水系には名瀑が多い。

 東洋のナイアガラ原尻の滝、大野のナイアガラ沈堕の滝、白水の滝といったふうにいろいろある。

 しかし、観音滝は意外と知られていないのではないだろうか。

 それは傾山中にあり、白き一筋が75mの落差を真っ直ぐに落ちゆく様は感動的であるが、

 不便なためかあまり紹介されていない。隠れた名瀑と言ったとこか。


 
 大野川は祖母山に発し、阿蘇、九重の数多の流れを集め、大分市から別府湾に注ぎ、

 河口に大分川と共に広大な三角州をつくる。


 1950年代、大分市の人口は10万人弱で、九州では佐賀市に次いで2番目に小さい県庁所在地だった。

 1960年代に入ると、大分市は工業振興による発展を目指し、新産業都市の人口要件を満たすため、

 鶴崎市などと大合併に踏みきり、昭和39年に新産業都市に指定される。

 その後、三角州先の埋立地に新日鉄などの大工場が次々に進出。

 それまで鄙びた小都市だったのが、九州を代表する工業都市へと急速に発展し、

 2015年、大分市の人口は50万人弱となり、九州第5位の都市となった。