山国川 (やまくにがわ)



 山国川は、福岡県と大分県の県境となって流れる。


 九州平定に功のあった黒田官兵衛は、秀吉から豊前6郡を与えられ、山国川河口に中津城を築く。

 関ヶ原の後、黒田氏は筑前に転じ、替わって細川忠興が豊前一国と豊後2郡を与えられて中津に入り、

 間もなく小倉城に本拠を移し、中津城は支城となる。

 加藤氏改易後、細川氏は肥後に転じ、替わって小笠原2氏がそれぞれ小倉城と中津城に入る。

 そのうち中津藩小笠原氏が改易寸前の播磨移封立藩となり、替わって奥平氏が中津城に入る。
 
 日本三大水城の一つ中津城は、近世、目まぐるしく城主が替わった。 


 明治維新後、廃藩置県により豊前一国を領域とする小倉県が誕生する。

 しかしその後、小倉県は福岡県に編入され、

 更に山国川を境として南部の中津、宇佐の2郡は大分県に分割された。

 今でも、旧豊前国は山国川によって福岡県と大分県に分かれている。


 その頃、中津川に決まりかけた川の名が、小倉県により山国川とされた。

 上流の渓谷が、かつて山国谷と呼ばれていたためであり、貝原益軒の豊国紀行には、

 「其源彦山の東より来る大河なり。河にそいてのぼれば、山国の谷に至る。

 此谷ふかく村里多きよしと云。又立岩多く景甚よし、険路なりとかや」と記されている。


 さらに江戸後期、この地を訪れた頼山陽が「耶馬渓山天下無」と中華風に詠じて以来、

 山国谷は耶馬渓(やばけい)と呼ばれるようになった。

 火山活動による凝灰岩や凝灰角礫岩、熔岩からなる台地が、侵食されてできた奇岩の連なる景勝地であり、

 日本三大奇勝や日本新三景に選ばれている。

 ちなみに、日本三大奇勝は、耶馬渓、寒霞渓、妙義山で、

 日本新三景は、大沼、三保の松原、耶馬渓である。

 また、全国に何とかの耶馬渓が多数ある。これは耶馬渓が広く世間に知れ渡っていた証だろう。


 耶馬渓に青の洞門がある。

 旅の途中の禅海和尚が、断崖絶壁の難所で通行人が命を落とすのを見て、

 ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、

 石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけて掘り抜いた。と美談にある。

 実は和尚さん、なかなかのしたたか者だったらしく、

 1750年に完成した後、通行人から人4文、牛馬8文の通行料を徴収したらしい。

 全長約340m、トンネル約140m。これが日本最古の有料道路というわけだ。

 紅葉の季節になると今でも多くの観光客が訪れる。


 山国川は英彦山に発し、数多の支流を集め、名勝耶馬渓となって、中津平野を潤し周防灘に注ぐ。