球磨川 (くまがわ)
日本三大急流の一つである。
もちろんそれは流れの速さを測って、早い順に3つ選んだということではない。
近世以降、川の舟運が不可欠な交通手段だったにもかかわらず、
難所が多く、水難事故が多発したことから、
危険な、あるいはスリリングな意味を込めて、そう呼ばれるようになったのだろう。
人吉からその急流球磨川下りを楽しむことができる。
冬、掘り炬燵を囲んで、球磨焼酎の直燗を傾けながら、また五木の子守唄を聴きながら、
ちょっと水飛沫を気にしながら、球磨川の流れに揺られるのは、なんとも心地好いものだ。
しかし油断して小用をもよおすようなことがあったら大変だ。
数舟連なって漕いで行くため、最後尾の舟以外、
舟尻に行って放出しようとも、後ろの舟から丸見えになってしまうわけだ。
心地よいからと言って、調子に乗って飲み過ぎないよう注意しなければならない。
小京都とも言われる人吉は情緒深いところで、晩秋から冬にかけて霧がかかる。
濃いときは全く先が見えない程で、球磨盆地は霧で埋まり、ホワイトアウトとなる。
慣れないうちは、天気が良くないと見違えるが、実はこれ、快晴のサインなのだ。
人吉球磨では普通なのだろうか、濃霧のティーショットをしたことがある。
全く視界が利かないのに中断にならず、カキーンと打っても、どこへ飛んだか球まかせ。もちろんロストボール連発だ。
球が無くなるぐらいならいいが、人に打ち込まないのか、ちょっと心配なのだが、どうなんだろうか。
天気に恵まれると、市房山の頂から球磨盆地の全貌が眺められる。
山々に囲まれ、まるで大きなスプーンで削り取ったような典型的な盆地であり、
その中央を縦断するように球磨川が流れている。
その球磨川によって、神社の系統が分かれている。
左岸側は霧島神社系、右岸側は阿蘇神社系であり、
左岸の市房神社は霧島系、右岸の青井神社は阿蘇系といったふうに分かれている。
神話の時代、球磨盆地は両勢力の衝突、拮抗するところだったのだろうか。
人吉相良藩は2万2千石だったが、実際はそんなもんじゃないだろう。
急流と険しい峠に阻まれた陸の孤島、隠れ里だったが、市房山頂からは丸見えだ。
盆地とは言え、広大な平地が広がっている。
更に江戸時代、幸野溝、百太郎溝が造られ、農業生産は飛躍的に向上したと考えられる。
薩摩や日向の焼酎の主原料が、芋、麦、蕎麦といった雑穀であるにもかかわらず、
球磨焼酎の原料が米なのも、その豊かな米作の賜物なのかもしれない。
それにしても球磨焼酎は美味い。
特に寝かせることで風味絶佳、雑穀酒には期待できない味わいが醸し出される。
泡盛も美味いが、日本で一番うまい酒は、球磨焼酎の古酒ではなかろうか。
球磨川の支流に、毎年のように水質トップを記録している清流、川辺川がある。
鮎釣りで有名だが、近年ダム問題で揺れに揺れた。
五家荘、五木など九州脊梁に降った雨を集め、球磨盆地で本流に合流する。
ところで、五家荘はもともと五箇庄だった。
そして全国に五箇の付いた地名が散らばっているが、その多くに平家の落人伝説があるらしい。
さらに五箇に限らず、五木や五島にも平家伝説があることからすると、
五は、平家の秘密の合い言葉だったのかもしれない。
更に遠い昔、九州南部にクマソと呼ばれる大和朝廷にまつろわぬ民がいた。
古事記では熊曾、日本書紀では熊襲だが、筑前風土記ではもろに球磨贈於である。
球磨郡は贈於郡とともにクマソの本拠地だったと云われている。
景行天皇は、大和朝廷に従わぬ熊襲建(クマソタケル)兄弟を征伐するよう、皇子の小碓命(オウスノミコト)に命じた。
小碓命は新築祝いに女装して紛れ込み、兄弟に見染められ、まさに宴もたけなわの時、兄弟を刺殺した。
その際、弟タケルから名をもらい、倭建命(ヤマトタケルノミコト)と名乗るようになった。
英雄ヤマトタケルの名の由来は、なんとも姑息な暗殺によるものだった。
球磨川は求麻川とも書く。
特に下流の八代には、合併前に上松求麻村と下松求麻村があり、求麻川は別名夕葉川と呼ばれている。
八代は畳表の緯糸になるイグサの産地だが、経糸には麻が使われる。
夏来れば 流るる麻の木綿葉川 誰水上に禊しつらむ 藤原定隆