緑川 (みどりかわ)
九州には色を名とする川が多い。
熊本市街を流れる白川、阿蘇谷を流れる黒川、久住山南麓の赤川、
それに九州脊梁を水源として、阿蘇南外輪山から数多の流れを合わせ、
熊本平野の南部を抜けて有明海へ注ぐ緑川もそうだ。
ゴッホやゴーギャンが南へ行って色彩に目覚めたように、
九州は光が強く、色彩がビビッドに感じられるのだろか。
いわれてみれば、緑川の川の色は何となく緑っぽいような気もする。
もっとも周辺に緑が多く、それが川面に映っているだけなのかもしれない。
緑川の支流となる加勢川には、水前寺公園や江津湖といった阿蘇伏流水の豊富な湧出地がある。
水の国くまもとのシンボルであり、また熊本市民の憩いの場となっている。
水前寺公園はもともと肥後細川藩の大名庭園で、陶淵明の詩「帰去来辞」の一節「園日渉以成趣」から「成趣園」とされた。
東海道五十三次の景勝を模したと云われる庭園には、
細川幽斎が後陽成天皇の弟八条宮智仁親王に古今和歌集の奥義を伝授した古今伝授の間が、
大正元年、京都から移築された。
江津湖周辺はもともと湧水の豊富な湿地帯であり、縄文時代から人々が住み着き、奈良時代にはその西側に肥後の国府が置かれた。
慶長年間、加藤清正が延長12キロにも及ぶ江津塘(えづども)を築き、塘の東側に湧水が溜まって江津湖となった。
江津湖には毎秒約10トンもの湧水があり、その量は加勢川流域の降水量の約4倍とされる。
また、水温が年間を通して20℃ぐらいに保たれていることもあって、国指定天然記念物のスイゼンジノリなど
貴重な動植物の宝庫となっている。
また、緑川流域には、通潤橋、霊台橋、二俣橋など、石のアーチ橋が約90基も残っており、日本一の石橋密集地域とされる。
その石橋を手掛けたのが種山石工(たねやまいしく)であり、江戸後期、八代郡種山手永にいた石工の技術者集団である。
その石工集団の祖は、長崎奉行所に勤めていた藤原林七である。
彼は長崎の眼鏡橋を見て、重い石を積み上げているにもかかわらず、アーチに支柱も不要な橋の構造に関心を持ち、
出島のオランダ人と接触。石橋の建造技術の元となる円周率の計算方法を学んだ。
しかし、当時は無断で異国人と接するのは御法度であり、林七は奉行所を追われるように逃亡した。
長崎を出て転々とした後、肥後の種山に流れ着き、石工の宇七に出会う。
その後、武士を捨て隠れるように種山で農業に従事する一方、
宮大工が使っていた「曲尺(かねじゃく、さしがね)」からアイディアを得て、
独自の「林七流アーチ論」を完成させ、ついに小さな石橋を建造。
一族の秘伝として息子たちに技術を伝授した。
その末裔や弟子などが、江戸後期から明治・大正時代にかけて、
熊本県内はもとより県外にも通路や通水のため多数の目鑑橋を架けた。
有名どころでは、鹿児島の甲突川五石橋、東京の万世橋、江戸橋、皇居旧二重橋、日本橋、浅草橋、神田橋などがある。