菊池川 (きくちがわ)
菊池川流域の米は、昔から美味いことで評判だ。
江戸時代、肥後米は大阪堂島の米相場を決める基準米の一つであり、
その半分は、菊池川河口の高瀬から出荷されたものだった。
特に中流域の菊池や山鹿産が良品とされていた。
それは今も同じで、食味評価で最高ランクを毎年取り続けている。
中でも菊池市七城町砂田のものは上等とされ、砂田米と呼ばれる。
菊池川本流沿いの土壌が黒土なのに対して、支流の迫間川沿いは白土である。
白土は花崗岩が風化した砂土のことで、砂田にはその名の通り、砂の田んぼが広がっている。
砂土は水はけが良さそうだが、ミネラルとか土壌成分にも差があるのだろうか。
こちらの方がより良質な米が獲れるらしい。
また流域は、装飾古墳が多いことでも知られている。
装飾古墳とは内部が色彩や図柄で飾られた古墳のことで、
全国の3割が熊本県にあり、中でも菊池川流域に集中している。
古墳時代から豊かな瑞穂の郷だったのだろう。
米作を基盤として、装飾古墳など独自の文化を持ったヒの王国が、
菊池川流域に広がっていったのかもしれない。
さらに7世紀、鞠智城が造営される。
白村江の戦いで大敗した大和朝廷が、西日本各地に築いた城の一つで、
大宰府やそれを守る大野城、基肄城に食糧等を補給する支援基地だったと言われている。
当時、朝鮮半島からの攻撃を想定すると、大分内陸に入っているが、
当時から米どころだった菊池川流域に、兵站貯蔵を考えたのだろうか。
平安時代から室町時代にかけて約450年間、24代に亘ってこの地を治めたのが菊池氏だ。
元寇で活躍したのが10代次郎武房で、竹崎季長の蒙古襲来絵詞に描かれている。
石塁の上に陣取った菊池武者の装いは豪華かつ颯爽たるもので、
二郎武房の鞘には、紛れもない虎の尾が使われている。
当時、高瀬や伊倉など菊池川河口域の湊は、国際貿易港として栄えたと云われており、
日宋貿易で財力を得ていたのかもしれない。
菊池氏が華々しく活躍したのが南北朝時代である。
平家にくみする武家の多かった九州の抑えとして、源頼朝が抜擢し守護とした東国御家人、
小弐氏、大友氏、島津氏のいわゆる九州三人衆を向こうに回し、
征西将軍宮懐良親王を迎え、頑なまでに宮方として戦い抜いた。
一時期は太宰府を陥落させ九州を統一し、征西将軍宮は日本国王として明と交易を行った。
南北朝合一を機に北朝と和睦、肥後国守護となるが、その後家督をめぐる内部抗争により衰退。
阿蘇氏や大友氏に家督を横取りされ、最後は大友宗麟によって菊池氏は滅亡した。
菊池氏の遺領は菊池三家老の赤星氏・城氏・隈部氏に引き継がれるが、
戦国時代に入ると筑後川流域と同じような運命を辿る。
ところで、22代当主能運の妻子は日向山中に逃れ、
米良氏と名を変え、脈々と菊池の正統を承継したとされる。
明治維新に際し討幕に参加したことにより、菊池への改姓が許され、
米良氏18代当主武臣は、菊池武臣となって男爵に叙せられた。
偶然の一致だろうか。鞠智にも菊池にも米良にも、漢字中に米の字が隠されている。
上流には渓谷美の極致、菊池渓谷がある。
新緑、紅葉の頃は特に素晴らしいが、肩書きも凄い。
日本名水百選、森林浴の森百選、日本の滝百選、水源の森百選、
その他県レベルの百選もずらりと並んでいる。
遠い昔、その美しき流れを漠然と眺めていると、ふと、悠久の感覚が湧いてきた。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しく留まることなし。
菊池武光も懐良親王もこの流れを眺めながら、太平の夢を見ていたのだろうか。
阿蘇外輪山を水源とし、菊池、山鹿、玉名の各市を貫流し、有明海に注ぐ。