筑後川 (ちくごがわ)

 
 福岡方面へ上りの九州縦貫道をとばしていくと、行く手に白い鉄橋が見えてくる。

 筑後川だ。遠い記憶が甦る。


 九州一の大河であり、

 日本の暴れ川三兄弟の次男、筑紫次郎でもある。


 その暴れ様は、下流域の曲がりくねった県境に表れている。

 福岡県と佐賀県の境であり、筑後と肥前の国境にあたる。

 いつの時代か知らないが、筑後川を両国の境界と決めたのだろう。

 その後、繰り返される氾濫を防ぐため、流路はショートカットされたが、

 境界は変えられることがなかった。

 大きく蛇行する県境が、暴れ川の本性を今に伝えている。


 流れ出る先の有明海は、豊穣の海だった。

 過去形になりつつあるのが残念極まりないが、

 少年時代には、まだ浅利などの貝がザクザク採れた。

 大昔はもっと採れたのだろう。

 そのことを物語るかのように、あちこちに貝塚が残されている。


 下流域には、肥沃な筑紫平野が広がる。

 そこは温暖な気候で、前面に魚介類豊富な遠浅の海がある。

 エジプトはナイルの賜物と言われるが、ここに文明が生まれないはずがない。

 日本で最も早くから栄えた穀倉地帯の一つと考えられ、

 そのことを証明するかのように吉野ヶ里遺跡がある。


 弥生時代を代表する環濠集落跡だが、3世紀頃に最盛期を迎えた後、

 古墳時代が始まるとともに、近畿など各地の環濠集落と同じように滅んでしまう。

 3世紀後半、強大な統一政権が生まれ、大八洲を席巻したのか。

 その特徴は前方後円墳なのか。それははたしてヤマトなのか。


 想像は尽きないが、豊かな土地の宿命か、古くから戦乱の地でもある。

 まずは、「磐井の乱」。

 日本書紀によると、6世紀前半、朝鮮半島へ出兵しようとした近江毛野(おうみのけぬ)率いるヤマト軍を、

 新羅とつるんだ筑紫君磐井が阻んだことから、物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって鎮圧されたとされる。

 歴史は勝者が作るものとすれば、記紀は壬申の乱の勝者大海人政権が、過去を正当化したものかもしれない。

 磐井の乱の真偽は定かでないが、北部九州最大の岩戸山古墳は、磐井の墓とされている。

 前方後円墳なので、既に統一政権の影響下にあったと思われるが、とんでもない大きさであり、

 筑紫の勢力の大きさと、中央政権からの独立性の強さを物語っている。


 それから、日本三大合戦の一つ「筑後川の戦い」、まさに激闘だ。

 時代は下って14世紀の南北朝時代、

 征西将軍宮懐良(かねなが)親王の下、肥後守菊池武光率いる南軍(宮方)が、

 筑前、豊前、対馬、肥後の4ヶ国守護少弐頼尚率いる北軍(幕府方)を撃破した。

 南軍4万、北軍6万ともいわれる将兵が、筑後川を挟んで睨み合った後、

 大保原に移行、入り乱れて戦った。

 九州のほとんどの地域の武士が、どちらかに加担していたと云われる。

 北軍が敗走した後、武光は筑後川の支流で血糊のついた太刀を洗った。

 この場所が、町名にもなっている「大刀洗」であり、

 懐良親王が筑後川を渡って構えた「宮ノ陣」など、

 地名となって当時の苛烈な戦いを伝えている。

 南朝方はこの大戦の後、太宰府に入り九州を統一した。


 さらに戦国時代、筑紫平野の覇権は大友氏、龍造寺氏、島津氏と目まぐるしく変遷した後、

 秀吉の九州平定によって、とりあえずの決着を見る。

 この際、大友宗麟の家臣で忠義、剛勇、鎮西一と称された立花宗茂は、

 筑後柳川を与えられ、秀吉の直臣大名に取り立てられた。
 
 実父は風神高橋紹運、養父は雷神立花道雪で、時の権力者から高く評価され数奇な運命をたどる。

 小田原征伐では、秀吉から「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評され、

 唐入りでは、窮地を救われた加藤清正から「日本軍第一の勇将」と絶賛されるなど、武勇伝に事欠かない。


 関ヶ原に際し、家康からの誘いを拒絶。

 秀吉への忠義のため西軍につき、結果改易され、浪人となった。

 清正の食客として熊本で過ごした後、江戸で浪人中のところ、本多忠勝の世話により江戸城に召され、

 秀忠の御伽衆として陸奥棚倉に1万石を与えられ、大名として復帰する。

 さらに大坂の陣で功績を挙げ、な〜んと筑後柳川を再び与えられた。

 関ヶ原に際し西軍として出陣、改易された後、旧領への復帰を果たした唯一の大名となった。 

 
 その柳川が水郷(すいごう)と呼ばれるように、筑後川下流域にはクリークが網の目のように張り巡らされている。

 少年時代、西鉄電車に乗ってクリークの広がる八丁牟田までヘラ鮒釣りに出掛けた。

 小さな太公望は、ビギナーズラックのためか立て続けに釣り上げ、衆目を集めた。

 もちろんクリークはヘラ鮒のためではなく、灌漑用、生活用として造られたもので、

 クリークへの取水は、有明海の干満差と、淡水と海水の比重差を利用して行われた。 

 すなわち、有明海の潮が満ちて海水が筑後川を遡り始めると、

 比重の大きい海水は川の流れの下に潜り込み、川の水位を押し上げる。

 その押し上げられた淡水(アオ)のみを、満潮時に樋門を開けて取水するもので、

 アオ取水と呼ばれる自然の理に沿ったうまい方法だ。 


 筑後川を遡って中流域に目を向けると、千メートル級の山々で囲まれた日田盆地がある。

 瀬の本高原を源流とする大山川をはじめ、九重連山を源とする玖珠川などの多くの支流がこの盆地で合流する。

 筑後川は日田では三隈川と呼ばれる。

 その水量は豊かで川幅も広く、支流の多さとも相まって、日田も古くから水郷とされる。

 しかし、こちらの読みは「すいきょう」である。下流域と違って水質は清らかで、濁る音は似合わない。

 また、気温の日較差が大きく、かつ空気が滞留しやすいうえに、

 多くの川が流れているため、秋から初冬にかけて底霧と呼ばれる深い霧が発生する。


 江戸時代、日田は御料(天領)として独自の町人文化が発達。

 幕末、広瀬淡窓が私塾「咸宜園」を開いた。

 身分を問わずいつでも誰でも入塾でき、また「三奪の法」により身分・出身・年齢などにとらわれず、

 全ての塾生が平等に学べるようにされた。

 咸宜とは「ことごとくよろし」ということで、塾生の意思や個性を尊重する教育理念を表している。

 日本最大規模の私塾に発展し、高野長英、大村益次郎、清浦奎吾など、人物を世に送り出した。


 日田より上流では、大きく玖珠川と大山川に分かれる。

 かつては、より長い玖珠川が筑後川本流とされていたが、流域面積の広い大山川が本流と改められ、

 筑後川の長さは両川延長の差分だけ短くなった。
 

 未曾有の大水害となったS28西日本水害により、筑後川の治水対策は抜本的に見直され、

 大山川上流の津江川に、洪水調節を主とした多目的ダム、松原ダムと下筌ダムが計画される。

 その建設にあたり、日本史上最大のダム反対運動「蜂の巣城紛争」が起きる。


 室原知幸氏を中心とする地元住民は、先祖伝来の地が湖底に沈む悲しみ、

 事業や補償の説明不足への怒り、役人の一方的な思い上がりへの反発などが重なって、

 「墳墓の地を守れ」のスローガンの下、反対運動を展開していく。


 反対住民は、下筌ダムの建設予定地に20棟以上の監視小屋を建て、鉄条網を二重、三重に張り巡らせ、

 これらを渡り廊下で連結した砦、いわゆる「蜂の巣城」を築き、交替でたてこもり、

 ダム建設反対の意思を世間に対して強烈にアピールした。


 行政代執行による九地建の蜂の巣城立ち入りに対し、反対派は黄金水を浴びせかけるなど激しく抵抗、

 ついに流血沙汰となり、室原氏は公務執行妨害容疑で逮捕される。

 その後、法廷闘争に移るが、反対派の敗訴が続き、組織が分裂。代執行により蜂の巣城もついには落城。

 室原氏は闘争本部を自宅へ移し、最後まで反対を叫び続けたが、昭和45年春死去。

 涙ながらに弔辞を読んだのは、当時の九地建の所長だった。


 この紛争は、その後の公共事業と基本的人権、財産権のあり方に大きな影響を与え、

 水源地域住民の生活安定等を目的とした水源地域対策特別措置法が施行されるとともに、

 水没地域に配慮すべく河川法、土地収用法等が改正された。  



 本流より長い支流、玖珠川の水源は九重連山である。

 その最上流、鳴子川は、九州山人のふるさと坊ヶ釣を流れている。

 まだ少年の頃、キスリングに重たいテントを担いで入山、坊ヶ釣でキャンプした。

 薪で火を熾し、飯盒で飯を炊き、大鍋で鯨缶入りのカレーを作った。

 これまでのどのカレーよりも美味かった。

 食後、川へ行ってコッヘルを洗ったが、

 夏だというのに、手を長くは浸けていられないほど川の水は冷たかった。