遠賀川 (おんががわ)
川筋である。
喧嘩、博打、酒は川筋に咲く三つの花と言われた。
川筋者(もん)といえば、命知らずのことであり、
川筋気質(かたぎ)といえば、筑豊の任侠肌と決まっている。
川筋とは、筑豊炭鉱を貫いて芦屋から響灘にそそぐ遠賀川とその支流の流域一帯のことで、
中間、直方、飯塚、田川、嘉麻各市や遠賀、鞍手、嘉穂、田川各郡などが含まれる。
もちろん遠賀川筋の略称であるが、わざわざそんな野暮な言い方はせず、
あくまで天下御免の川筋なのである。
筑豊というのは石炭産業とともに生まれた地域名であり、
炭田が筑前と豊前(田川郡)に跨っていたことから付けられたのだが、
昔の坑夫は決してそんな官制名は使わなかった。筑豊の炭鉱ではなく、川筋の炭鉱なのである。
ヤマからヤマへと「川筋を渡り歩いた男よ」と言えば、皆恐れおののいたと云われる。
そういえば、昨年亡くなった健さんも川筋の生まれだった。
筑豊炭田は、三井独占による三池炭鉱とは異なり、三井、三菱、住友、古河など中央財閥や、
筑豊御三家と言われる麻生、貝島、安川の地方財閥から、個人事業主のような者まで事業参入し、
数え切れないほど多くの炭鉱が乱立した。
背景に八幡製鉄所を抱えていたこともあって、筑豊は明治から戦後にかけて日本最大の炭田だった。
特に戦後、疲弊した産業再生のため、国策として傾斜生産方式による石炭増産が図られると、
採炭量はピークを迎え、日本の戦後復興を支えた。
しかしながら、1950年代後半以降、主なエネルギー源が石炭から石油へ転換され、
筑豊の炭鉱は次々に閉山、川筋は衰退の一途をたどった。
九州で唯一鮭が遡上した川だったが、石炭を洗って黒く濁ったせいか、
川筋の賑わいとともに、鮭は上らなくなった。
炭鉱が閉山した近年、稚魚の放流が行われ、鮭が帰って来たとのことだ。
やはり、経済発展と自然環境は反比例せざるを得ないのだろうか。
それじゃどっちを優先すべきか。
長い目で見れば、自然の方が大事に決まっているが、目の前の生活がかかっていると、
そうも言っちゃおれない。
あなた自然で飯が食えますかとシビアに批判されそうだ。
しかしそこは、これからの世の中にとって重要な考え方の分岐点と思われる。
やはり、多少貧しくとも、自然が大切なんじゃなかろうか。
そして、みんなでそう思わなければ、それは実現することがない。