高梁川 (たかはしがわ)
中国山地の花見山を源流とし、新見市、高梁市、総社市など備中の中心を流れ、倉敷市を貫流し水島灘に注ぐ。
流域の高梁市には、現存する天守閣の中で最も標高が高い、難攻不落の名城、備中松山城がある。
幕末、戊辰戦争で朝敵となった備中松山藩は、維新後、伊予松山藩と紛らわしいこともあって、
新政府から改名を求められ、かつての地名だった高橋の字をちょっとアレンジして高梁藩とした。
それに伴って、川の名前も松山川から高梁川に改められた。
ちなみに、秀吉の水攻めで有名なのは、同じ備中ではあるが高松城であり、
堰きとめられた川は、高梁川と旭川の間を流れる足守川である。
足守川と高梁川の間の地域には古墳が多く、なかには全国第4位の大きさを誇る造山古墳や、
同じく第9位の作山古墳など巨大な前方後円墳もあり、古代吉備国の勢力の大きさを物語るとともに、
この辺りが吉備の中心地域だったと推測される。
律令制の時代になると、古墳群に隣接する高梁川流域に国府が置かれ、総社が創建された。
古代、国司が着任した後の初仕事は、その国の神社を一の宮から順に巡拝することだったが、
だんだん面倒くさくなったのか、国庁の近くに国中の神々を集め、まとめて参拝するようになった。
その国中の神々を集めて祀った神社が総社である。
中世以降、武士の台頭、守護や地頭の配置、国司の形骸化のためか、総社の多くは廃れていったが、
備中の総社は栄え、周辺は門前町として賑わい、明治以降、総社町として吉備郡の中心市街地となり、
現在では周辺町村と合併し総社市となっている。
備中総社宮の正式名称は「總社」で、主祭神はどういうわけか出雲の神、大国主とその妻である。
高梁川の河口一帯は、観光の倉敷、コンビナートの水島、学生服とジーンズの児島、
貿易港の玉島等が合併し、山陽地方で人口3番目の都市、倉敷市となっている。
ちなみに、2番目は岡山市で、隣接するこの2つの都市が合併すれば、
広島を抜いて山陽第1位の120万都市が生れるのだが、以前から話は持ち上がるものの、まとまることはないようだ。
かつて、倉敷は代官所が置かれた天領、岡山は外様大名の城下町であり、
市街地の成り立ちの違いによる対抗心も根強いものがあるらしい。
その倉敷には日本で最初の西洋近代美術館となった大原美術館がある。
大原財閥の総帥大原孫三郎は、プロテスタントに改宗すると事業収益の社会還元に目覚め、
病院などの公的施設を次々と設立。美術館もその一環だったようだ。
日本に美術館が数えるほどしかなかった昭和初期、地方都市にすぎない倉敷に、
このような美術館が開館したのは画期的なことだった。
開館当初は来館者ゼロという日もあったほど注目度は低かったそうだが、
大原孫三郎の先見性は特筆されるべきだろう。