旭川 (あさひがわ)


 こちらは備前の西の大川。


 中世以降、吉井川と同じく高瀬舟によって中国山地と瀬戸内海の生活が結び付けられ、

 旭川流域は賑わいをみせていた。


 戦国時代になると、宇喜多直家が岡山平野の広さと水陸交通の利便性に目を付け、

 大洲原と呼ばれていた旭川のデルタ地帯の、岡山等の小高い丘の一つ石山に築城し、

 後を継いだ秀家が「岡山」へ天守閣を移し、石山城を取り込んで岡山城を築いた。


 江戸時代に入り、岡山藩主池田光政に仕える陽明学者熊沢蕃山が、「川除けの法」を考案。

 旭川の氾濫を越流・放水させる百間川が開削され、江戸期を通じて洪水から岡山城下を守った。

 更に、光政の子綱政が、旭川の中州に日本三名園の後楽園を造営する。

 
 明治以降は干拓が進められ、昭和30年代まで続けられ、児島湾はどんどん狭められていった。

 八郎潟、有明海とともに日本の三大干拓とされる。


 蒜山高原を源流として、勝山、落合、建部など川湊から発展した町を経て、岡山市を貫流し児島湾に注ぐ。