吉井川 (よしいがわ)


 岡山県には似通った3つの大川があり、中国山地から瀬戸内海へ向けて、並んで流れている。

 東から、吉井川、旭川、高梁川であり、岡山三大河川とも言われる。

 旧国の区分では吉井川と旭川は備前を流れ、それぞれ東の大川、西の大川と呼ばれ、

 高梁川は備中を流れている。


 備前も備中も元は吉備であり、古代吉備国は、大和、出雲、筑紫と並ぶ勢力を誇った。

 古墳時代には、大規模な前方後円墳が造られ、

 権力者のもと三川のデルタ地帯で稲作が盛んに行われたと考えられる。

 日本の水田稲作は、縄文後期から弥生初期の頃に始まったとされるが、水稲のDNAは長江流域が起源らしい。

 すなわち、日本の米は長江流域の生まれということだが、伝播にはいろんな説がある。

 おそらく黒潮による海上の道により九州に上陸し、徐々に列島に広がっていったのだろう。

 その際、当然のことだが水稲の生育に適した土地に根付いていったと考えられる。

 今のような灌漑技術がない時代に、水稲の生育に適した土地というのは、

 自然の状態で水田に近い土地であり、それは干潟などの湿地帯ではなかろうか。

 
 吉井川や旭川は児島湾に注いでいる。

 湾を囲んでいる児島半島はもともと島であり、本土と児島の間は「吉備の穴海」と呼ばれる海だった。

 そこには吉備の三大河川から、中国山地の豊かな栄養分が流れ込むため、魚影の濃い宝の海でもあった。

 元々魚介類が豊富なうえ、三川のデルタ地帯には洪水による湿地帯が広がり、水稲適地として米が作られ、

 ますます人が集まり、次第に古代吉備王国へ発展していったのではなかろうか。

 三川により運ばれる中国山地の土砂が堆積し、また干拓が進められ、江戸初期に本土と児島は陸続きになった。


 似たような地形が山陰地方にもある。

 島根半島は陸続きであり、だからこそ半島なのだが、縄文時代は島だったらしい。

 その後、長い年月をかけて、日野川、斐伊川、神戸川らによる土砂の運搬堆積作用によって、

 島と本土の間の海が徐々に埋め立てられ、現在のように平野と汽水湖からなる地形となっていった。

 出雲は、今も宍道湖七珍、中海七珍に代表されるように、蜆などの魚介類に恵まれているうえ、

 ヤマタノオロチにより繰り返される洪水のため、湿地帯が広がり、水稲適地となって食料供給能力が増大し、

 吉備と同じように、古代出雲王国へ発展していったのではなかろうか。


 とすれば日本で古代王国が成立する地理的要件として、

 水稲適地としての淡水干潟などの湿地帯と、魚介類豊富な汽水湖などの内海があることが挙げられる。

 ちなみに、古代大和王国を育んだ奈良盆地は、縄文時代は湖で、弥生時代には湿地帯が広がっており、

 大和川を下ると、広大な汽水湖、河内湖につながっていた。

 さらに、古代筑紫王国の筑紫平野についても、筑紫次郎によって繰り返される洪水によって後背湿地帯が広がり、

 前面には魚介類の宝庫、遠浅の有明海が広がっている。


 水稲が日本中に広まっていった弥生時代の遺物に銅鐸がある。

 用途不明で謎だらけの青銅器だが、古代中国の「越(えつ)」の遺跡から似たような形の青磁器が発見された。 

 越は、春秋時代に長江流域の越族を中心として成立した国で、呉越同舟で有名だが、

 楚、呉などと共に長江文明の流れを汲むと考えられ、稲作や銅の生成で栄えた。 

 呉を滅ぼして中原の覇者となるが、その後紀元前300年頃、楚によって滅ばされる。


 ここからは推測だが、国が滅んで大陸を追われた越族の一部は、稲と銅を持って海へ逃亡し、

 黒潮に乗って西南諸島あるいは九州へ流れ着き、

 長江流域で暮らしていた時と同じように、適地を見つけ稲作を始め、銅鐸で豊作を祈ったのではあるまいか。

 後世、舶来した仏教や漢字などが、日本に合うように造り変えられ、日本人に定着していったように、

 水田稲作と青銅技術も縄文人に受け入れられ、風土に合うように造り変えられ、

 西から東へ少しずつ日本中に広まっていき、筑紫、吉備、出雲、大和などの水稲適地に、

 瑞穂の国が成り立っていったのかもしれない。


 稲作を中心とする農耕社会になると、水や土地を巡る争いが起こるようになり、

 戦いを重ねて地域ごとに覇者が生れ、群雄割拠するようになったとも考えられる。

 その後、土地の生産性など経済力か、舶来の技術力か、はたまた騎馬、鉄器などの兵力か、

 まさか祈祷力ということはないだろうが、大和の勢力が他を圧倒するようになっていった。

 そのうち、大和に信長のような英雄が出現したのか、あるいは黒船のような外圧があったのか、

 列島統一に向けた動きが生じ、次第に大和を中心とする日本連合(united kingdom of japan)が結成された。

 その頃から、大規模な前方後円墳が造られる古墳時代となって行ったのではないだろうか。


 時代が下り大和は徐々に列島支配を強化していくが、吉備の勢力は脅威だったのか、

 備前、備中、備後、更に美作の4ヶ国に分国している。



 吉備から考古の沼に嵌まってしまった。


 話を川に戻すと、吉井川は美作・伯耆・因幡の三国境となる三国山を源頭とし、岡山市西大寺から児島湾へ注いでいる。

 古来から出雲と近畿を結ぶ交通の要路であり、室町時代以降近代まで、人や荷を運ぶ高瀬舟で賑わい、

 美作の中心地津山、黒田五十二万石発祥の福岡、和気清麻呂を生んだ和気、

 刀鍛冶で有名な長船、裸祭りの西大寺など、多くの湊町が栄えた。