斐伊川 (ひいかわ)
出雲はわけても神々の国であり、日本中が神無月になるとき、出雲は神在月になる。
出雲を舞台とした神話の一つに、ヤマタノオロチ伝説がある。
古事記によると、高天原を追放されたスサノオノミコトは、
出雲の肥河(日本書紀では簸の川、現在の斐伊川)の上流鳥髪に降り立ち、
川を上ると、クシナダヒメ(櫛名田比売、奇稲田姫)を間にして泣いている老夫婦に出会う。
夫婦には8人の娘がいたのだが、高志からヤマタノオロチが毎年やってきて食べられたのだという。
今年も怪物がやってくる時期が近づいており、このままでは最後の娘も餌食となってしまう。
そこで、娘を嫁にもらうことを条件に、スサノオはオロチ退治を請け負った。
まず姫を櫛に変えて隠し、垣を作って8つの門を作り、それぞれに老夫婦に作らせた強い酒を満たした桶を置かせた。
現れたオロチは8つの頭をそれぞれ桶に突っ込んで酒を呑み始め、酔って寝てしまった。
その隙にスサノオは十拳剣(とつかのつるぎ)でオロチを切り刻んで退治するが、尻尾を切る時に刃が欠け、
尻尾から太刀が出てきた。これが天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)であり、スサノオは姉のアマテラスに献上。
後に三種の神器の1つ、草那芸之大刀(くさなぎのたち)と呼ばれるようになる。
オロチを退治したスサノオは、クシナダヒメを元の姿に戻し、新居を求めて出雲の須賀へ行き、宮殿を建てて、
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を
と詠んだ。これが日本最初の和歌と云われる。
その後、スサノオ一族は出雲で末広がりに繁栄したのか、出雲大社の祭神オオクニヌシは二人の子孫とされている。
この神話の解釈の1つとして、ヤマタノオロチは洪水で荒れ狂う斐伊川そのものとする説がある。
クシナダヒメを稲田と見做し、毎年娘を食べるのは、斐伊川が氾濫して田畑を壊滅させることを示し、
オロチの退治は治水を意味するとされる。
また、尻尾を切った際に剣の刃が欠け、新剣が発見されたのは、
十拳剣は鉄製だが、天叢雲剣は鋼製であり、尻尾として比喩された斐伊川上流に、
製鋼技術を持つ集団がいたことを意味するとも言われる。
斐伊川上流域は、源頭の船通山など花崗岩地帯となっている。
花崗岩は非常に風化しやすく、白っぽい真砂(マサ)になる特性がある。
このことから斐伊川には真砂が流れ込んで、美しい砂の川となり、うろこ状砂州が見られるが、
その一方、土砂が大量に堆積し、河床が周囲の地盤より高い天井川となり、洪水が繰り返されてきた。
さらに花崗岩からできた砂の特性として、砂鉄が採れることが挙げられる。
製鉄には、原料と燃料と技術が必要となるが、良質な砂鉄、豊富な木炭、大陸からの技術により、
斐伊川上流では、古代から踏鞴(たたら)製鉄が盛んに行われた。
江戸時代になると川砂鉄などの自然採取だけでは原料不足となり、
鉄穴(かんな)流しと呼ばれる山砂鉄の比重選鉱法が用いられるようになる。
そうすると選鉱後の土砂が人為的かつ大量に斐伊川へ流入し、より頻繁に氾濫するようになった。
寛永年間の洪水をきっかけにして、それまで簸川平野を西へ流れ日本海に注いでいた斐伊川は、
川違え(かわたがえ)がなされ、東に流れ宍道湖に注ぐようになった。
ヤマタノオロチ伝説は記紀に出てくるが、出雲風土記には記述がないことから、
大和地方で作られた宮廷神話ではないかとも言われている。
逆に記紀にはないが、出雲風土記に記載され、古くから地元で語り継がれてきたものとして、
戀山(したぶるやま)の伝説がある。
その昔、ワニ(和爾)が阿伊村のタマヒメノミコトを恋い慕い、樋川(斐伊川)を遡って会いに来た。
ワニを恐れたタマヒメは石で川を遮った。
ワニはタマヒメに会うことができず、ますます恋い慕ぶることになった。
ここでも因幡の白兎と同じくワニが登場する。このワニとはいったい何なのだろうか。
よく言われるのがサメワニ。すなわち鮫とされるが、それでは非科学的な伝承の域を出ない。
恋い慕ったり、毛を剥いだりするのだから、人あるいは人の集団を象徴しているのではないだろうか。
古代大和朝廷の有力豪族の一つに和邇氏がいる。皇后を何代も輩出し、柿本人麿の柿本氏、
小野妹子、小野小町、小野道風などで有名な小野氏、山上憶良の山上氏など、
一族から多くの派生氏族を生んだが、もともとは安曇氏らとともに海人族だったとされる。
推測だが、ワニとは日本海岸や朝鮮海岸を本拠にした海賊(古代の倭寇か)のことだったのではなかろうか。
上陸しては川を遡って強奪を繰り返し、人々から恐れられていたのかもしれない。
時代が下ると、和爾は鬼になり、戀(したぶる)が舌震になって、人々は和爾の恋を鬼の舌震に変えてしまった。
斐伊川の支流、大馬木川渓谷の奇岩怪岩の累々と乱れる有様は、まさに鬼の舌震を連想させるようだ。
もともと呼称はヒ川であり、八世紀の好字令の後、キ国が紀伊国とされたように、
ヒ川が斐伊川と表記されるようになったと思われるが、「ヒ」とは元来どういう意味なのだろうか。
出雲風土記では「樋」、古事記では「肥」、日本書紀では「簸」と表記され、
その後、現在まで「斐」となっているが、アイデンティティはどれなのだろうか。
ひょっとしたら、肥国(肥前・肥後)のヒと同じ意味かもしれない。
ヒ国の場合は、一般的には阿蘇山のイメージや不知火から「火」、もしくは肥沃な「肥」とされるが、
有明海の潮が引いた時に現れる干潟の「干」説が有力なのではあるまいか。
なぜならば、その干満の差は驚くべき光景であり、一目瞭然で地域を代表する特徴であるうえ、
その干潟は、貝類がザクザク採れていたに違いない宝の海であり、
さらに、陸続きではない肥前、肥後の分け方も、有明海の前後ならば合点がいくからだ。
とすれば、原始から古代にかけて、斐伊川下流域や宍道湖には干潟が広がっていたのかもしれない。
また、武蔵国の一の宮は氷川神社であるが、これも出雲のヒ川に因んでいるらしい。
もともと出雲の氏族だった武蔵氏が、武蔵国造として移住したとき、
荒川をヒ川に見立てて信仰したと考えられている。
ちなみに氷川神社の主祭神は、スサノオ・クシナダヒメ・オオクニヌシである。
斐伊川は、船通山を源頭とし、数多の支流を合わせ、宍道湖へ注ぎ、更に中海へ流れ、
境水道を経て日本海へ注ぐ。
島根半島と内陸にはさまれた水域は、斐伊川と神戸川によって長年埋め立てられ、簸川平野となった。
朝鮮半島に近い立地、農耕地としての簸川平野、漁撈の場としての宍道湖・中海の生産性により、
原始から古代にかけて、出雲には独自の文化圏が形成されていたと考えられている。