吉野川 (よしのがわ)


 四国ではなんといってもこの川が最初に思い浮かぶ。

 暴れ川三兄弟の三男坊、四国三郎だ。

 水系は四国全県に及び、流域面積は四国全土の2割を占める大河である。

 名の由来は、川岸が葦(よし)で覆われていたことからと云われている。


 瓶ケ森に源を発し、四国山中を東に流れ、

 北に向きを変えて、大歩危・小歩危の名勝を造りつつ四国山地を先行横断し、

 別子銅山の銅山川、平家の隠れ里の祖谷川などを合流させ、

 高校野球で有名になった池田で再び東に向かい、中央構造線に沿って流れ、

 ラッパ状に徳島平野を造りながら、徳島市から紀伊水道に注ぐ。


 古来からの暴れ川であり、数えきれない氾濫を繰り返し、周辺に泥土を撒き散らかした。

 しかしながら、その泥が肥沃なことから、畑作に適した沃土がつくられていった。


 阿波国はもともと粟国であり、国名のとおり粟がよく育つところだった。

 粟と言っても今では食べることも少ないが、昔は日本人の主要な食料であり、

 豊穣を祈る五穀の一つだった。これも吉野川がもたらした賜物だろう。


 戦国から江戸期にかけて徳島藩主となった蜂須賀氏は、吉野川沿岸に藍の栽培を始め、

 その保護奨励政策をとり、やがて徳島藩の専売体制を確立させていった。

 藩には藍方奉行が置かれ、品種改良を重ねるとともに、栽培法は全て口伝とされ、

 決して書物にされず、ノウハウを盗みに来た他国者や国外に売ろうとする者は、追及され殺された。
 
 徳島藩は藍によって全国でも有数の裕福な藩になった。

 領石高は25万石だが、藍商人から上納される運上銀や冥加銀により、

 実際は40数万石だったと云われている。

 
 香川県など瀬戸内海側は、少雨性の気候で小河川しかないことから、水不足に悩まされる一方、

 吉野川流域では、しばしば洪水により甚大な被害が生じた。

 戦後、洪水調節、用水確保、電源開発等のため、「四国はひとつ」の理念のもと調整が進められ、

 吉野川総合開発計画が合意された。

 高知県に建設された早明浦(さめうら)ダムに蓄えられた吉野川の水が

 徳島県の池田ダムを中継し、讃岐山脈を貫通して、香川県一円に供給されている。