淀川 (よどがわ)
近畿で最初に思い浮かべるのは、なんといってもこの川だろう。京阪の動脈だ。
太く短いイメージがあるが、水系として見れば日本を代表する大河川であり、
石狩川、信濃川、利根川とともに日本一の有力候補と思われる。
まず、なんといってもその上流には日本一の面積を誇る琵琶湖があり、
そして、数多の川が琵琶湖に流れ込むこともあって、支流の数は965本で日本一である。
さらに、日本の歴史、文化、政治、経済に与えた影響度は、日本一に違いあるまい。
本流も有名だが、支流がまたすごい。
姉川、宇治川、鴨川、桂川、木津川と並べてみると、まるで日本史そのものではないか。
これらの川は古来たくさん歌われてきたが、百人一首にもいくつか選ばれている。
朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木
風そよぐ楢の小川の夕暮は 御禊ぞ夏のしるしなりける
みかの原わきて流るるいずみがは いつ見きとてか恋しかるらむ
日本にもリズム感溢れる名曲があった。
雨雪を琵琶湖に集め、唯一大津から瀬田川として流れ出す。
京都に入り宇治川と名を変え、桂川と木津川を合わせながら大阪に入り、淀川となる。
その合流する少し手前、伏見を流れる宇治川の左岸に、戦前まで巨椋池があった。
面積約800ha、周囲16kmもあり、池と言うよりむしろ湖というべき大きさだったが、
国営第1号の干拓事業として埋め立てられ、今では広大な農地になっている。
また、合流する宇治川と桂川の間に淀の地がある。
秀吉の時代、弟の秀長が淀古城を改修したが、
側室茶々の懐妊を喜んだ秀吉は、淀城を産所として茶々に与えた。
これより茶々は、淀の方と呼ばれるようになる。
ちなみに、淀君というのもあるが、君は遊女に付ける呼び名であり、
徳川政権になってから付けられた蔑称である。
そして大阪城。
石山本願寺の跡地に、信長の意を承継した秀吉が壮大な要塞を築いた。
上町台地の北端に位置し、淀川や旧大和川で守られた天然の要害だったが、
徳川幕府の2度にわたる攻略により落城。豊臣氏は滅亡した。
淀殿が関ヶ原への出陣を決断したならば、歴史は大きく変わっていたに違いない。
時代は飛んで昭和45年3月31日、日本航空機がハイジャックされた。
機種はボーイング727型で、その愛称は「よど号」であった。
当時の日航は、飛行機の愛称に日本を代表する川の名前を付けていたのだ。
もちろん川の名前の由来は、大阪の人々からすると、淀から流れて来るためである。