揖斐川 (いびがわ)
水の都と言えばベニスやブルージュのように、海辺や河口の街を思い浮かべるが、
大垣は、日本列島のど真ん中にありながら、水の都と言われる。
地下水が豊富で、あちこち自噴してるうえに、
揖斐川の数多の流れが、市内を縦横無尽に流れているからだ。
また大垣は、奥の細道結びの地でもある。
深川から舟にのりて始まった漂泊の旅は、大垣で舟にのりて終わった。
そのあと芭蕉は、伊勢の遷宮おがまんと、揖斐川を桑名へ向けて下って行った。
行く春や鳥啼き魚の目は泪
を旅立の句とし、
蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ
を結びの句とした。
行く春で始まり行く秋で終わる。奥の細道にはいろいろと仕掛けが施されている。
桑名に着いた芭蕉は、その手はくわなの焼き蛤をきっと食ったに違いない。
それから揖斐川水系の藤古川は、関ヶ原から流れてくる。
ここは古代から交通の要衝であり、幾度も天下分け目の決戦の場となった。
まずは、天智天皇の子の弘文天皇(大友皇子)に対する弟の大海人皇子の反乱、壬申の乱である。
藤古川の支流の山中川は、両軍の兵士の血で川が染まり、黒血川と呼ばれるようになった。
戦後即位した天皇は、この要衝に不破関を設け、鈴鹿関、愛発関とともに三関とし、
三関よりも東の地域は、「関東」と呼ばれるようになった。
ちなみに、足柄坂と碓氷坂の東をさす「坂東」も、このころから使われだした。
天皇は中央集権を推し進め、「日本」という国号や「天皇」という称号を初めて使い、
まさに日本の創業者となり、天武を諡号された。
次に、南北朝時代、足利尊氏が最も恐れた男、疾風怒濤の陸奥守北畠顕家率いる南軍が、
土岐頼遠、高師冬などの北軍を撃破した。青野原の戦いだ。
時代の麒麟児、北畠顕家は史上最年少の14歳で参議、16歳で陸奥守、18歳で鎮守府将軍となり、
旗印として、武田信玄に先んじること200年前に風林火山を用いた。
尊氏に連戦連勝し、滅亡寸前まで追い詰めたが、武運つたなく弱冠21歳で戦死した。
父は、神皇正統紀の北畠親房。
そして近世、日本史上もっとも有名な戦が繰り広げられた。関ヶ原の戦いである。
この戦い、建前は豊臣家の内紛だが、実質的には徳川家の覇権を決定づけた。
結果的にみると、恩が仇となって、石田三成は豊臣家を潰してしまった。
だんだん川とは関係のない話になってきた。
話を川に戻すと、全国チェーンの居酒屋を思い浮かべてしまうが、支流に養老の滝がある。
日本を代表する二人の絵師がこの滝を描いている。歌川広重と葛飾北斎である。
西洋画壇に衝撃を与えた江戸の天才絵師たちは、実景をデフォルメして、より印象的に描いている。
二人の個性が良く出ているが、どちらかと言えば広重の方が好みだ。
さらに平成20年、揖斐川上流に徳山ダムが完成した。
総貯水容量は6億6千万立方メートル、日本一である。
水害常襲地帯の揖斐川流域を守るため、また東海三県の水瓶として造られたが、
徳山村全体が湖底に沈むことや環境問題などから、訴訟を含め猛烈な反対運動が起きた。
完成までには、計画から半世紀以上、51年の歳月が費やされた。