木曽川 (きそがわ)
名古屋が近くなると、いつも木曽三川が気になり車窓を眺める。
三川は濃尾平野を貫流し名古屋から海に流れ出ると思い込んでいたが、意外と河口は三重県だった。
ぐるりと濃尾平野の西側を迂回し、焼き蛤で有名な桑名から伊勢湾に注いでいる。
木曽川、長良川、揖斐川のそれぞれが、山から大量の土砂を運び、長い年月をかけ濃尾平野を形成した。
河口近くでは三川が入り乱れて流れ、いくつもの島があった。
しょっちゅう氾濫するものの、だからこそ土壌は肥沃であり、島のそれぞれに堤が築かれ輪中集落となっていった。
戦国時代、一向宗徒が長島城主を追い出し、長島輪中は東海における一向宗の根拠地となった。
しかし、天下布武を掲げる隣の織田信長と必然的に対立するようになり、
結果、信長はまさに徹底的に輪中の一向宗徒を殲滅した。長島一向一揆である。
そして時代は下り、太平の江戸時代になると、東海道五十三次が整備される。
古今東西、強大な政権が生まれると、首都を中心とした道路網が作られるらしい。
すべての道はローマに通ずるのである。
東海道中、木曽三川もあって、唯一の海路となったのが、熱田と桑名の間、七里の渡しである。
回り道の陸路もあったが、どっちみち船で木曽三川を渡らなければならなかった。
渡し場となったおかげで、風待ちなどの滞留客で賑わい、熱田の宮宿は旅籠の数が約250軒で東海道で最も多く、
道中屈指の繁華街となった。ちなみに、2番目は桑名宿の約120軒である。
それから、三川流域はまさに治水との戦いの歴史でもある。
江戸時代、家康の命により、木曽川の左岸、御三家の尾張側に48kmの長大な堤防が築かれた。御囲堤である。
堤には桜が多く植えられたが、花見により、堤防が踏み固められるねらいがあったと言われている。
もともと美濃側の方が地盤が低い上に、尾張側に堤防が築かれたため、美濃側で水害が激増した。
しかしながら、右岸では御囲堤に対して三尺低い堤防しか築いてはならなかったとする伝承もある。
この辺の意地悪さというか不公平さが、徳川政権の限界だったのかもしれない。
住民のためというより、お上のためという感じだ。
さらに、宝暦治水。
宝暦3年(1753年)、幕府は薩摩藩に対し木曽三川の分流工事を命じた。もちろん手伝普請である。
知らせを聞いて、薩摩では幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。
強硬論を抑え込んだ家老の平田靱負を総奉行として、薩摩藩士約千人を動員し工事は始まった。
工事は難航を極め、最終的に薩摩藩が要した費用は約40万両に上り、赤痢の流行もあって多数の藩士が亡くなった。
宝暦5年、工事が完了し幕府の見方を終えると総奉行平田靱負はその旨を国許に報告し、翌日、切腹して果てた。
薩摩藩は財政逼迫し、奄美群島でのサトウキビ栽培の強要と収奪を行い、現地では「黒糖地獄」と呼ばれた。
倒幕の遠因の一つとも言われる。
木曽三川を代表するのが木曽川だ。
鉢盛山を水源として、木曽谷を中山道、中央線とともに南下し、木曽福島で御嶽からの王滝川を合わせ、
寝覚の床などの渓谷を造り、中津川から岐阜県に入る。
恵那峡などの峡谷を経て濃尾平野に流れ出し、乗鞍を水源とする飛騨川と合流。
美濃加茂から犬山城付近まではライン河に似ているとして、
日本風景論の志賀重昂が、大正時代に日本ラインと命名した。
それから西に傾く濃尾平野のためか、グルッと反時計回りに名古屋を取り囲むように、
平野の西側を岐阜と愛知の県境となって流れている。