豊川(とよがわ)
飯田線は天竜川と別れて愛知県に入ると、豊川支流の宇連川(うれがわ)沿いを豊橋へ向かう。
宇連川が豊川本流と合流する長篠城址辺りで途中下車し、長篠の戦いの古戦場を見学した。
戦国最強とも云われた武田騎馬軍団が、最新兵器鉄砲三千丁の織田軍団に敗北した。
武田四天王の馬場信春、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信らは、
信長自らの出陣を知り、撤退を進言したと云われるが、勝頼は戦いを決断した。
兵どもの夢のあと、古戦場には馬防柵が復元されていた。
古代には飽海川(あくみがわ)と呼ばれ、近世まで吉田川と呼ばれていた豊川は、
東三河平野に出ると、豊川稲荷の門前町豊川(とよかわ)や、
江戸時代までは吉田と呼ばれていた豊橋を流れ渥美湾に注ぐ。
明治2年の版籍奉還により(三河)吉田藩最後の藩主松平信古は、吉田知藩事に任じられるが、
早くから新政府に降伏していた(伊予)吉田藩と同名であることを嫌い、豊橋藩と改称した。
吉田を豊橋と改めた後、川の呼称も豊川となった。