大井川 (おおいがわ)
箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川
子供の頃、社会科で習った東海道一の難所だ。
大名、庶民を問わず、川を渡るには輿や肩車によらねばならなかった。
架橋はおろか渡し舟もなく、江戸や駿府を守るためと云われている。
大井川源流域は、南アルプスに楔のように食い込んでいる。
その源頭は、三国境となる三峰岳だ。
初めての南アルプスは秋の北岳だった。
広河原から大樺沢を上り、それから三伏峠へ縦走した。
途中、三峰岳から大井川源流の三国沢を眺め、
熊ノ平小屋のテラスから、沢の対岸に大きくそびえる農鳥岳を写生した。
楔のように食い込む広大な山林は、特殊東海製紙の社有地であり、
山域の山小屋は、概ね東海フォレストの運営となっている。
旧東海製紙は、大成建設、帝国ホテル、ホテルオークラ、サッポロビールなどと共に
旧大倉財閥の一角であり、GHQにより解体の対象にされた。
創業者の大倉喜八郎が大名登山をした大倉尾根が、赤石岳から椹島へ伸びている。
金谷から大井川鐡道に乗って、大井川沿いを遡った。
車窓から眺める大井川は、川幅は広いものの水が少なく、
越すに越されぬ大井川の面影なく、賽の河原のような灰色の河川敷が広がっていた。
数多く造られたダムによって取水され、川から水がなくなっていったらしい。
千頭からは日本唯一のアプト式鉄道に乗り換え、大井川上流の景色を楽しんだ。
それから田代温泉に前泊して、椹島から荒川三山、赤石岳、聖岳を周回した。
聖岳を下っていると、下から雷鳴が聞こえ始め、そのうち雷雨となった。
恐怖のピカゴロドンと横殴りの豪雨の中、ずぶ濡れになって聖平小屋へ逃げ込んだ。