鬼怒川 (きぬがわ)
この百名川に支流は含めないというか、本流に含まれるとしているが、何事にも例外はあるものだ。
鬼怒川と渡良瀬川は、今は利根川の支流になっているが、元来それぞれ直接海へ流れ出していた。
それを無理矢理ひっつけたは家康であり、決して川のせいではないのである。
人を相手とせず天を相手にせよ、西郷南洲翁の教えどおり天然自然を尊重し、独立して選定した。
4世紀古墳時代頃、今の群馬県と栃木県を合わせた地域は毛野(けぬ)と呼ばれていた。
それが上毛野(かみつけぬ)と下毛野(しもつけぬ)に分かれ、
好字令により表記から毛が抜かれ上野、下野とされたが、
読みにはそれぞれ「こうずけぬ」、「しもつけぬ」と毛が残った。
今も毛の名残は、上毛三山とかJR両毛線などに見られるが、鬼怒川も昔は毛野河だった。
それが中世から近世、衣川や絹川に変わり、明治になって鬼怒川と表記されるようになる。
平成27年9月の関東・東北豪雨により鬼怒川が氾濫し、甚大な被害が生じた。
しかし鬼怒川の氾濫は今に始まったことではない。
以前から大洪水を繰り返す暴れ川であり、
その恐ろしさが幾世代にも伝えられ、「鬼が怒る」と表記するようになったのかもしれない。
ちなみに毛の由来には、穀物説、蝦夷説、紀国説がある。
穀物説は、立毛など毛は稲を始め五穀を意味することから、肥沃な土地であったという説。
蝦夷説は、蝦夷を古くは毛人と記したことから、「毛の国」、二字表記にして「毛野」の字が当てられたとする説。
なお、宋書倭国伝の倭王武の上表文に「東に毛人を征すること五十五国」とある。
さらに紀国説は、崇神天皇皇子で上毛野君や下毛野君の祖とされる豊城入彦命など紀の国の出身者が移住し、
「きの」が転訛したとする説で、諸説芬々といったところか。
ところで鬼怒川と言えば、温泉を思い浮かべるに違いない。
高度成長期以降、鬼怒川温泉は東京の奥座敷として栄え、毎年多くの観光客が訪れた。
しかしバブル以降、熱海などと同じく鬼怒川は衰退の一途を辿り、今では廃墟ホテルが並んでいる有様だ。
温泉に対する世間のニーズ、嗜好の移り変わりに、適応できなかったためだろう。
いつまでも同じやり方が通用する理由もなく、世間を相手にするのならば、世の中の流行を敏感に察知し、
柔軟に変えれなければ、時代遅れになって人気がなくなってしまう。
芭蕉は不易流行と言った。
時代を超えた変わらない価値と、時代に応じて移り変わる新しさを見極めるセンスが大切だ。