富士川 (ふじかわ)


 日本三大急流の一つに数えられる。


 南アルプス鋸岳を源頭とする釜無川と、甲武信岳を源頭とする笛吹川が、

 逆三角形の形をした甲府盆地の南の頂点で合流し、富士川となる。

 身延あたりで、南アルプスから流れてきた早川を合わせ、

 そのまま南下して蒲原と富士市の境から駿河湾へ注ぐ。


 支流の早川は、早川町より上流の芦安村(現南アルプス市)では野呂川と呼ばれ、

 北岳と間ノ岳の西側斜面を源とし、そこから時計回りにグルッと北岳を取り囲むように流れ、

 白根三山と鳳凰三山の間に大渓谷を造る。



 源平の昔、富士川で不思議な戦が行われた。

 平維盛率いる大軍が、源氏追討のため京から鎌倉へ進撃し、川を挟んで源氏と対陣した。

 甲斐源氏の武田信義が、夜秘かに対岸の平氏へ奇襲をかけようと富士川を渡ろうとした時、

 水鳥がいっせいに飛び立ち、その羽音に驚いた平氏の軍は一戦も交えないで退散してしまった。

 もともと戦意がなかったのか、それともやはり敵と間違えて混乱したのか、

 俄かに信じ難い話であり、いくさというのもどうかと思うが、富士川の戦いとして伝承されている。

 

 甲斐源氏の末裔で、戦国最強の一人とも云われる甲斐の虎、武田信玄。

 信玄は、なぜ強かったのか。

 晴信(信玄)は父信虎を追い出したとされるが、実際のところは、戦に明け暮れた大将を家臣団が疎んじ、

 嫡男を担ぎ出したのではないだろうか。 

 晴信はそれを敏感に察知し、治水など国内経営に力を注いだ。

 結果、武田二十四将とも云われる、秋山、穴山、甘利、板垣、小山田など、地元の有力国衆で構成される家臣団と、

 信玄とは固い信頼関係で結ばれ、御旗盾無のもと一致団結、最強の軍団が生まれたのではなかろうか。


 晴信は父を追放して国主になるとすぐに「信玄堤」に着手した。

 古来、毎年のように水害に襲われていた、釜無川と御勅使(みだい)川が合流するあたりに、

 約20年の歳月をかけて、新田開発にもつながる一連の治水システムを完成させた。

 その後400年以上経った現在でも、信玄堤はその役割を果たし続けている。