子吉川 (こよしがわ)
南に聳える名峰鳥海山、丁岳山地の流れを集め、本荘平野を潤し由利本荘市から日本海へ注ぐ。
丁岳はひのとだけと訓読みし、火の弟であることからすれば、
丙すなわち火の兄(ひのえ)は、有史以来噴火を繰り返してきた鳥海山ということだろうか。
江戸時代初期、子吉川を境に同じ2万石の2藩が移封された。
一つは、もともと磐城12万石の戦国大名だったのが、関ヶ原で兄の佐竹義宣とともに曖昧な態度を見せ、
家康によって所領没収となり、紆余曲折の末、羽後亀田に移封された岩城氏の亀田藩、
それから、出羽の山本郡六郷を支配する国人領主だったのが、関ヶ原で東軍に与し、常陸の新治郡府中に1万石の大名として抜擢、
さらに最上氏改易の後、羽後本荘に移封された六郷氏の本荘藩だ。
両藩は子吉川の河口近くに、それぞれ湊を持っていた。
右岸が亀田藩の石脇湊、左岸が本荘藩の古雪湊だった。
江戸時代、北前船による交易が盛んになると、子吉川河口の2つの湊が有力な寄港地として発展した。
北前船は諸国の様々な物産を運んで来て、大きな利益をもたらすことから、
子吉川を挟んで相対する石脇湊と古雪港とで、幕府の仲裁が入るほど激しい北前船の争奪戦が繰り広げられた。
河口の湊に集まった米や木材は、北前船により大坂へ運ばれ、代わりに塩や砂糖、古着、工芸品、陶器などを運んできた。
また、蝦夷地からは鰊や鮭などが送られてきた。
それらは子吉川の舟運によって由利の郡部へ配送されるとともに、郡部からは主産物の米と木材のほか、
木炭、薪、大豆、酒などが河口の湊まで運ばれた。
子吉川は由利地方の人々にとって物流の大動脈だった。