馬淵川 (まべちがわ)
マベチはもともとマベツで、アイヌ語でマ(船着場)ベツ(川)だったらしい。
今も河口には、全国4位の水揚量を誇る八戸漁港、仙台塩釜港に次いで貿易額東北2位の八戸港がある。
その名の由来からして、古くから良港として栄えてきたのだろう。
北上山地を源とし、R4や銀河鉄道と共に一戸、二戸、三戸を通って、八戸から太平洋に注ぐ。
ところで、南から順序良く一戸、二戸、三戸と、戸の付く地名が並んでいるのはどういう訳か。
戸の由来には、牧場説と柵戸説がある。
平安後期、馬淵川流域から青森県東部にかけて、糠部郡(ぬかのぶぐん)が置かれた。
そこでは九部(戸)四門の制がしかれ、糠部郡は一から九までの「戸」(あるいは部)に分けられ、
一戸ごとに七ヶ村を所属させ、九の戸を東・西・南・北の四つの門に分属させた。
この地方は古くから馬が特産品で、貢馬として年貢を馬で納めており、戸はその管理のための牧場を意味するとも云われ、
糠部の駿馬は、馬がどの戸の産なのかを示す「戸立(へだち)」という言葉が生まれるほど有名になった。
戸の付く地名は、この九つに分割された戸に由来するというのが牧場説である。
他方、柵戸説は大和朝廷の蝦夷制圧に遡る。
7世紀から11世紀にかけて、大和朝廷は東北地方や九州南部に蝦夷や隼人との戦争に備えた軍事施設、城柵を築いていった。
城柵の維持のために置かれた人々は柵戸と呼ばれ、
自ら土地を開墾し生計を立て、城柵の造営や修理を行い、戦時には城柵の防衛に当った。
8世紀中頃までは、戸単位で関東などから移住したが、それ以後は浮浪人や犯罪人などが送られた。
東北に関東と同じ地名が残っているのは、移住のためと言われている。
北海道にも全国各地の地名があるが、時代は違えど似たような経緯によるものかもしれない。
戸の付く地名が並んでるのは、番号が付された柵戸の村を起源とするのが柵戸説である。
どっちが正しいのか分らないが、今に残された地名の経緯は両説が合わさったもので、
起源と言えば、より時代が古い柵戸説だろうか。