2020.11.21 新田神社
薩摩川内市にあり、近くには九州第2の大河、
川内川が流れている。
律令制定の頃、
このあたりは薩摩制圧の拠点となったようで、
国府や国分寺が置かれた。
新田神社がある神亀山。
古墳でもあり、可愛山陵とされている。
すなわち高千穂の峯に降臨した、
天孫ニニギの墓というわけだ。
というわけでもちろん御祭神も
ニニギノミコトだ。
二の鳥居
階段を上っていく。
末社がある。
右が東門守神社で豊磐間戸神、
左が西門守神社で櫛磐間戸神が
祀られている。
階段の途中にも末社があった。
右は高良神社で、天鈿女命、
中は中央神社で、大山祇命、
左は早風神社で、
級長津彦神と級長津姫神が祀ってある。
天照大神から系譜が記され、
最後は今上天皇とある。
万世一系というわけだ。
にらみを利かす狛犬。
ちょうど何かのお祓いがあっていた。
天下泰平、疫病退散とある。
ぜひお願いしたい。
神社内の庭と神殿。
沿革が押しピンで止めてあった。
要約すると、
701年大宝律令が制定され、
日本の60余国に国府が置かれた。
薩摩は、702年今の薩摩川内市に置かれた。
和名抄には、
川内川の右岸が高城郡、左岸が薩摩郡で、
薩摩郡以南は隼人の地とされた。
高城郡には合志、飽田、鬱木、
宇土、託万、新田の6郷があり、
新田以外の地名が肥後にあり、
薩摩統治に当たって、
肥後から大量の開拓民が移されたらしい。
新田神社48社家筆頭の執印氏は
官人の流れの惟宗姓で、
次席の権執印氏は石清水八幡宮関係の
紀姓が下向したもの。
新田神社が古文書で初めて
確認できるのは1013年で、
新田宮(にいたのみや)とある。
国家鎮護のため八幡神を
九州五所別宮に分け、
薩摩は新田神社に合祀され、
八幡新田宮ともいわれるようになった。
その後、
南北朝時代に国一宮を称するようになった。
8世紀前半、
薩摩もついには律令体制に組み込まれた。
薩摩よりも先に中央政権に服した
肥後勢が使われたようだ。
それにしても、社の沿革は、
ちゃんとした看板に書いたらどうか。
神社正面の一の鳥居を抜けていくと、
川内川が滔々と流れていた。
昔は川港だったのだろうか。
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