2020.11.21 枚聞神社
開聞岳登山など、何度も訪れた薩摩半島だが、
まだ枚聞神社に参拝したことはなかった。
懐かしの池田湖から開聞岳。
唐船峡そうめん流しに立ち寄る。
駐車場から下ると隠れ家のような会場に、
グルグルそうめん流しが多数配置してある。
鹿児島県人憩いの場所のようだ。
ビールが飲めないのが残念だが、
鱒のから揚げと季節外れのそうめん流しは、
とても美味かった。
薩摩一宮、枚聞神社に到着。
神社の真後ろに開聞岳が大きく聳える。
御祭神は、大日孁貴命を正祀とある。
しかし、
後ろに聳える名山と社の配置からしても、
もとは開聞岳に対する信仰だろう。
天照大御神は
薩摩が中央政権に組み入れられた後に
付け加えられたのだろう。
政府は、皇祖が祀られることで面目が立ち、
薩摩は、征服者の神を受け入れることで、
子孫と自治を守ったのかもしれない。
アマテラスに閉ざされた心の中に、
いつまでヒラキキがあったのか。
1,300年経った今では忘れられたのか。
ヒラキキとはどういう意味で、どういう信仰だったのか。
ワイキキというのもあるが、ポリネシア系か。
拝殿の手前に、
勅使殿や東西長庁が配置されている。
勅使殿の天井。
草花が描かれている。
鮮やかな朱塗りの拝殿。
なぜ朱なのか。
古墳のベンガラと同じ意味か。
拝殿の奥は厳かな雰囲気。
創建は708年と伝えられる。
続日本紀によると702年、
薩摩、多褹が反乱、征討され、
唱更国(後の薩摩国)が置かれ
律令体制に組み込まれた。
薩摩隼人、阿多隼人の教導に
肥後勢が差し向けられた。
元は頴娃郡、衣隼人の地。
平安から室町までは平姓頴娃氏が、
戦国期は伴姓頴娃氏が治めた。
江戸時代、
島津氏は薩摩藩を113の郷に分け、
郷の中心の麓に郷士を住まわせて治めた。
秀麗な開聞岳。まさに神だ。
途中で寄った釜蓋神社
多くの観光客で賑わっていた。
枕崎を過ぎて坊津へ。
輝津館に立ち寄る。
中世、坊津は
中国への硫黄輸出に関係していたらしい。
日本から火薬の原料となる硫黄を買付け、
軍備増強した宋だが、
モンゴルの騎馬隊にはかなわなかった。
薩摩塔の石材は中国、寧波周辺産らしい。
中世、寧波と坊津はつながっていた。
はたしていつからつながっていたのか。
夕方の双剣石。
坊津を後にして、加世田のよしやに宿泊。
近くのとみながで薩摩焼酎を堪能した。
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